徒然なるままに

酒害の掘り起こし。徒然なるままに綴ってみました。

内容が重複することがあるかもしれません。アルコール依存症者故と、お笑いください。

2023年3月11日 「生かされている私」

  私がお酒を嗜む様になったのは、まだ学生の頃でした。当時は学生寮に住んでおり、所属していたサイクリングクラブの先輩・友人たちが私の部屋に集まっては飲む様になっていました。アルバイトから帰ると私の部屋で勝手に宴会が始まっており「やぁ、帰ってきたか、もう始めていたからな」等という事もありました。また、朝気づくと7・8人の酔っぱらいが私の部屋の床に転がっていたり、二日酔いにも苦しむようなことも多々ありました。しかしその頃は、お酒そのものはあまり好きではなく、集まって“わいわいがやがや”する事がとても楽しく、普段はあまり口数の多くない自分が、お酒を飲む事で思った事が好きにしゃべれる事に気づき、お酒がこんなにも良いものか、とお酒の力にとらわれて行った様な気がします。

 就職する頃には毎日お酒を飲む様になり、飲まない日はありませんでした。その頃だったでしょうか。周りからは「酒好きで、しかも強い」と思われており、職場でも飲み会には頻繁に誘われていました。仕事をしていて、お昼過ぎに職場の先輩から「今日、(飲みに)行くか?」といわれると、その日は夕方が待ち遠しく“わくわく”しながら仕事をしていたものです。

 そのようなことが続いているうちに、いつしか飲んでいる途中の記憶がなくなるようなことがありました。朝目が覚めると、なぜか布団の中にいる。昨日どうしていたのか、どの店に何件行ったのか、どうやって帰ったのか、全くわからない。おまけに財布にあれだけあったお金がすっからかん。いくら使ったのだろうか。そんな空恐ろしい日もありました。

 ある時、職場で皿倉山に登ろうという事になり、5・6人程連れ立って、私は当時5歳だった長男を連れて、登る事にしました。皆でお酒を持ち寄って、頂上で軽く飲もうか、ということになっていましたが、私はお酒が足りなくなると困ると思い、1.8リットルの焼酎の紙パックを背中に抱えて登りました。頂上についた後、少し下った広場で皆で飲み始めましたが、昼間だった事もあり、他の方々はあまり飲みませんでしたが、私一人飲み過ぎ、完全に出来上がってしまったのです。さすがに歩いて下る事はできず、ケーブルカーで下山する事になりました。ケーブルカーの頂上の駅につき、切符を買おうと小銭入れを出しましたが、その場で小銭をばらまいてしまい、自分では拾えず、上司が「仕方ないなぁ」と拾ってくれていました。その後の記憶はなく、JRで帰ったのだと思います。小倉駅で上司がタクシーを停めてくれて、そして長男に「とうちゃんをちゃんと連れて帰れよ。」と言ってくれた事だけを憶えています。大人でも酔っぱらいを連れて帰るのはたいへんなのに、小さな子供が酔っぱらいの大人を連れて帰るのは、どんなに心細かったことでしょうか。小さな子供を連れているにもかかわらず、そんな飲み方をする、今から考えると、もう既におかしくなっていた様に思います。

 ある頃から、めまい、吐き気がするようになり、会社をお休みさせて頂く事になりました。それからは、どんどんお酒の量が増えて行きました。朝、目が覚めたら飲む。お昼ご飯の前に飲む。時には食べずに飲む。夕方までにまた飲む。そして夜は晩酌をし、記憶がなくなるまで飲む。寝ている時以外はお酒を口にし、アルコールが常に体内にあることが普通の状態になってしまいました。時には死にたいと思ったり、何かに取り付かれたのではないかとお祓いをしてもらった事もあります。しかし、アルコール依存症という病気については全く意識していませんでした。

 それからしばらくして、3年前の日食のあった頃、さらに記憶がまばらになりおかしくなっていきました。時々「酒を飲んで死ねれば本望だ。」というお話を聞きますが、私はそのような事を考えた事はありませんでした。何故なら、私はお酒が原因で死に至るという事が全く判っていなかったからなのです。しかし、血液検査の結果から、もしかしたら肝硬変になってもおかしくないと思い始めた頃には、もうどうなってもいい、と自暴自棄になってしまいました。お酒をやめようだとか、少しは量を減らそうだとか、そんなことすら考えられない。もう自分では、いや家族ですら、どうしようもない状況でした。

 もう入院して治療するしかないとなり、その時に通院していた病院の先生から強く説得され、いやいやながら、ある病院に入院する事になりました。入院して、2日目の夜の事です。夜中に寝ているとベッドの下に、なんとなく気配を感じました。ベッドの下を覗いてみると、とても綺麗なパール色に輝く白い蛇がいました。目はきょろりと、どちらかというと“かわいい”感じで、背中には何故か貝割れ大根が生えていました。“のそりのそり”と動いており、このままでは逃げてしまいそうです。これは誰かに知らせないといけないと思い、大慌てでスタッフさんを捜しましたが、夜中の事ですから、なかなか見つけられません。ようやく見つけて、その方の手首を掴んで連れてきて、「ほらっ!」と覗かせると、何もいませんでした。病院にそんな生き物がいる筈もありません。生まれて初めて見た幻覚だったのです。次の日の診察ではカルテに「白い蛇が・・・」と書かれていました。そして、診察して頂いた先生から「あなたはアルコール依存症の疑いがかなり高いです。アルコール依存症の専門治療プログラムのある新門司病院への転院を強くお勧めします。」とお話しされました。

 ほどなく新門司病院に入院させて頂きました。入院して3日程経ったある日の昼食時のことです。カレーうどんを食べていると視界が斜めになっていき、右手の力がなくなり、手がだらりとたれ、手に持っていた箸が背後に飛んで行きました。意識をなくして倒れてしまったのです。気づくとベッドの上で点滴されており、スタッフさんからの「今、奥さん呼んでいますからね。すぐに来るそうですよ。」という声が聞こえました。倒れてから1週間後の診察の際には「生きていて良かった、じゃないんですよ。今、あなたが“ここに生きて座っている”事が不思議なくらいな状態なんですよ。」とまで言われました。如何に重篤だったか。そして、もし入院が3日遅れていたら・・・。今思えばこれが最初の命拾いでした。

 しかし、そうまでなっていたにもかかわらず、アルコール依存症について判っておらず、肝臓が治ったらまた飲める。今度はお酒とうまくつきあって行けば良い、と思っていました。アルコール依存症なんて、とんでもない。自分はそんな病気じゃない。まさか、2度とお酒が飲めないなんて、そんなことがあろうはずもない。

 そんな状態で、しかも病院に無理を言って、2ヶ月で退院してしまいました。断酒できるはずがありません。節酒は出来る。周りにばれなければいい、と思っていました。最初は1本。ああ、ばれなかった。次は、2本。やっぱり大丈夫。でも、その時には私が飲んでいる事は、周りは判っていた様です。入院する前の状態に戻るのはあっという間でした。いえ、むしろ入院する前よりひどい状態になっていた様に思います。

 ある日の朝、コンビニで缶酎ハイを2本買いました。後で飲もうと思っていたのですが我慢できず、コンビニの店の前で朝の通勤の人々が通り過ぎる中、買ったばかりの缶酎ハイをその場で飲み干しました。すぐにコンビニの店内に戻り、缶酎ハイを、もう1本買いました。その後、何本飲んだのかは、もう憶えていません。その日、道ばたで倒れていたようで、気がつくと通りすがりの方に病院に運び込んでもらっていました。倒れた場所が悪かったら、倒れた時に打ち所が悪かったら、どうなっていたのか・・・。2回目の命拾いです。

 また入院するしかない、ということになりました。しかし私は頑に入院は拒否しました。その後に及んでも、入院したらお酒が飲めない、と思っていたのです。妻の父と姉が来てくれて、入院しない限りは社会復帰はありえない、と言われました。まだまだやり直しはできるのだから、体は入院していれば治るのだから、と話してくれました。実は途中までは真面目に聞いていたのですが、途中からお酒が飲みたくて仕方なくなり、気がそぞろに。そして早くこの場から逃れたいと、しぶしぶ入院する事に同意しました。そして最後に義姉が「まだお酒飲みたい?」と聞かれた時に、ようやくその事を言ってくれたと思い、即座に「飲みたい!」と答えました。その後、義父に付き添ってもらって近所のスーパーに行き、お酒を買いました。店を出たところで義父が「車を動かしてくる。」とその場を離れました。その瞬間に私はつい今しがた買ったお酒を一気飲みし、即座に店に取って返してお酒を買い直し、何気ない顔をして義父を待ちました。5分程して義父は戻ってきましたが、ちょっと時間がかかっていたので「しまった。もう1本飲んでおけば良かった。」と後悔しました。

 入院する前の晩の事です。夜中にふと目が覚めました。何故かどうしようもない不安感、とてつもない焦燥感、大きな絶望感に襲われました。こんな思いが続くのであれば“死んだ方がまし”と思う程です。自宅はマンションの11階・・・。入院しなければたいへんなことになる、と入院を自ら決意しました。3回目の命拾いだったのかもしれません。

 再入院してすぐに櫻井院長先生の勉強会がありました。その中で、特に印象深く記憶しているのが、(表現は多少違うかもしれませんが)「今日、受講者は8名いらっしゃるが、3年後に生き残っているのは3名だけだ。」「あなた方を殺すのは簡単だ。半合、いや一酌のお酒を目の前に置いて、知らんぷりをしていれば、それを飲んで勝手に街に出て行って死ぬまで飲んでしまう。」というお言葉でした。アルコール依存症者が飲酒を継続していれば、確率的にということだと思いますが、飲酒が死につながるということが怖い程判りました。残り3名に入りたいとも思いました。

 しばらくして、ご担当頂いておりました主治医の藤枝先生から、試験外出・外泊をするようご指導いただきました。しかし、院長先生の勉強会のお言葉のこともあり、外出すれば飲酒するのではないか、と不安で仕方ありませんでした。また、その不安をかき消すために飲酒してしまうのでは、と全く意味のわからない不安の連鎖に陥りました。

 その不安の連鎖を断ち切って頂いたのが断酒会です。院内の断酒会はもちろんのこと、藤枝先生のご尽力のお陰で、院外の断酒会にも出席させて頂けるようになりました。断酒会の中で、何年も断酒を継続されている大先輩ですらお酒には不安を感じていらっしゃり、努力されていることを知りました。また、各断酒会には大勢の方が出席されており、多くの方が断酒されていることを知りました。このことで、もしかしたら私もお酒をやめる事ができるのかもしれない、と思えたのです。

 入院時には、革細工教室で筆入れを作ったり、料理教室では餃子を包むところから作ってみたり、手芸教室ではティッシュ入れを作成し、また体育館ではジョギングしたり風船バレーボールをしたりと懐かしく楽しい思い出もあります。しかし、入院中は不安で不安でしかたなく、苦しんでいた自分もあります。退院してからの今、私は決して平坦な道を歩いている訳ではなく、死への底が見える崖っぷちを歩いている様な気がします。そして、その崖に落ちてしまわない様に、私がそちらを向いてしまう事がない様に、断酒会の方々が引っ張ってくれている様に思います。以前の私は崖を落ちてしまって、奇跡的に運良く崖の途中で引っかかりました。そして、断酒会の方々から崖の上に引っ張り上げて頂きました。また崖から落ちてしまったら、今度は途中で引っかかることはなく、際限なく落ちて行く事と思います。2度と奇跡はないでしょう。断酒会に何回も何回も出席させて頂き、皆さんのお話を聞かせて頂いているうちに「あれがどん底だったのか。あの機会を逃していたら命はなかっただろう。」と考えられる様になりました。またお酒を飲んでしまったら、どんな事になるかを思い起こし、少しずつ崖っぷちから離れて行きたい。妻や子供たちに悲しい思いをさせたくない、とつくづく思います。

 しかし、実は退院してすぐにはお酒をやめる、との固い決心はできていませんでした。自分一人で「絶対にお酒は飲まない。」と決心する事はなかなかできません。何回も断酒会に出席させて頂き、皆様の体験談を聞かせて頂き、また自分なりのお話をさせて頂く事で、その都度お酒をやめる決心ができる様になりました。私の決心は長続きしませんが、何回も何回も断酒会に出席させて頂き、その度にお酒をやめる、“絶対に飲まない”と決心する事でお酒がとまっている様に思います。今は自分一人の自分だけの断酒ではありません。妻、子供たち、そしてこれまで助けて頂いた方々があっての断酒だと思っています。自分一人だけで生きられている訳ではない、生かされているのだと思うと、決してお酒で命を落とす様な、恩を仇で返す様な愚かな事はできません。

 今の私は、空を見たり、花を見たり、夜景を見たり、海を見たり、様々なものを見た時、鮮やかな生き生きとした色を感じます。お酒を飲んでいた時には感じなかった事です。生きていて本当に良かった。その歓びを伝えられる人になれるように頑張って断酒会に出席し、断酒人として生きさせて頂きます。

これからも、どうぞよろしくお願いいたします。


2019年11月13日 「家族の対応にいらついた私」

  再飲酒した翌日、妻は義父と義姉に連絡した。なんてことをしてくれたのだ。どんな顔をして、義父と義姉に会えば良いのか。やがて二人はやってきた。二人の、特に義姉からの入院の説得は長時間に及んだ。私が再入院を頑なに拒否していたからだ。義姉からは、「入院しないと治らない。」、「まだ社会復帰はできる。会社では適当に仕事は流せば良い。」などと、色々と話をしてくれた。しかし、なかなか再入院する気にはなれなかった。なぜか・・・。入院すれば、また3ヶ月も酒が飲めない。この後に及んでも、そう考えていた。

 義姉の、「どうしても飲みたい?」と。「なら最後に1本だけ飲んでもいい。そして入院しなさい。」という言葉に、とうとう折れてしまった。酒を飲みたい、居ても立っても居られない気持ちに負けてしまった。

 再入院となり、病院で診察後に閉鎖病棟に向かった。病室に入ると同行していた妻が言った。「自分を見つめ直して反省して。」と。しかし、自分一人で過去を振り返っても、昔の出来事をあまり思い返すことはできないし、当然、反省することもできなかった。

 それから数年経ち、断酒会で体験発表を続けているうちに、過去の出来事とともに、その時の自分の気持ちや周りの人たちの気持ちを考えることができるようになってきた。

 あの時、妻はどうにもならない状況に、なんとかしたいと考えて、義父と義姉を呼んだのだろう。そんな気持ちを酌むことができない自分があった。

2019年10月23日 「忘れられない私の酒害」

  私の場合(あくまでも私の場合)、朝から飲むようになってから急激にアルコール依存が進んだように思う。しかし、それまで予兆がなかったかと言うと、そう言うことではない。随分と前から、たちの悪い酔っ払いだった。飲み会では、無理やり飲まそうとする。烏龍茶を頼む人がいると、「何〜、もう飲めない?」と、脅す。飲み放題の飲み会だと、飲む人がいるかどうかわからないのに、焼酎ロックを人数分注文し、飲む人がいないとわかると、一気に飲んだ。翌日、「あなたは酒を飲むと、恐い人になる。」と、言われた。

 自分ではアル中などでは決してないと思っていた。そうは思いながらも、毎朝鏡に向かうと、”あっかんべー”をし、白目が黄色くなっていないかチェックしていたし、図書館で缶チュウハイを飲みながら、”アルコール依存症とは”という類の本を読み、やっぱり違う、と勝手に判断していた。

 破綻する時が来た。ある時、家で焼酎を一気飲みし、気持ちよくなるはずが、急に苦しくなり、立ってもいられず、呼吸も困難になってきた。手元にあった携帯電話で救急車を呼んだ。

 まもなく、ある病院に入院した。そこで幻覚を見た。白い蛇。背中にカイワレのようなものが生えていた。そして新門司病院に入院。入院して、三日ほどした日に病院内で意識を失って倒れた。幸い椅子に座っていたため、怪我をすることもなかった。一週間ほどして、黄疸の症状がでた。

 アルコールの身体への過激な負担は、皮肉にもアルコールが切れることで、現れたのである。

2019年10月9日 「断酒しないと生きられない私」

  先日の田野浦病院支部創立23周年記念例会の特別講演の中で「脳性肝症」というお話が合った。新門司病院に入院した際には、もちろん知らなかった。新門司病院に入院し、酒が切れたためであろうか、病院の中で気を失って倒れた。その時は覚えているのであるが、再飲酒し、再入院してからのこと。ある患者さんから、「”えっちゃん”とね(その方、女性は自分のことを”えっちゃん”と呼んでいた)、お話ししていると突然倒れてきてびっくりしたの。私の体が大きいから(確かに大柄だった)受け止められたけど、普通の人なら無理だったと思うわ。」と言われた。私は2回倒れた事は全く知らず、その時初めて知った。血液検査の値はひどく暴れていて、その時は脳性肝症だったのではないかと、今は思う。

 断酒が始まってすぐに、門司田野浦病院支部の一泊研修会に参加させて頂いた。座談会で三木先生と同じグループになり、新門司病院内で倒れた話をすると、「○○脳症と言われなかったですか?」と聞かれたが、その時はその言葉を知らず、わかりませんとしか答えられなかった。

 時を経て数か月後、松ヶ江病院支部の夜間例会で、元支部長の伊藤さんがホワイトボードを持ち出し、おもむろにグラフを書き始めた。横軸は時間で、縦軸はアルコール依存症の病気の進行度合いである。飲んでいれば、もちろん右斜め上に向かって上昇していく。そこで伊藤さんは、こう言われた。「あなた方は今お酒が止まっているが、グラフの線は真横に進んでいるわけではないし、下に下がっていくことはないですよ。お酒をやめていても、病気は進行していて、右斜め上に向かって上昇しているんです。だから、再飲酒すると、元の位置から始まるのではなく、上昇した場所から始まるんです。だからひどい状態になるんです。しばらくやめているからもう大丈夫と思って、よもや良いだろうと飲んではなりませんよ。」と、お話しされた。

 私も、再飲酒してひどい状態、道で倒れるようなことはなかったが、道で倒れて見ず知らずの人に助けて頂いたので、伊藤さんの話にひどく納得した。

 もう二度と飲むことはないだろう。飲めばたちまち死に至ると思う。

2019年10月7日 「今も基本は体験談」

  新門司病院を退院したある日の夜、妻に激しく揺さぶられ、起こされた。「なんてことしてくれたの!」眠りからは冷めたが、酔いは冷めておらず、何を言われているのか、わからなかった。

 一つずつ、事の顛末を話される。朝、セブンイレブンで缶チュウハイを買い、産業医に悪態を尽き、道端で倒れ、記念病院に担ぎ込まれた。妻の身からすると、ようやく精神病院を退院し、会社にも少しずつだが出社し始め、ようやく社会復帰への目がで始めたかと思い始めたばかりの失敗。

 これからどうなるのか。まだ子供は小さく、先は長い。途方に暮れただろう。妻の両親や兄弟への手前もあっただろう。妻の職場にも、私が病気で入院しているため、残業はできないと伝えていたにもかかわらず、また、延びた。

 昨日の田野浦病院支部での体験発表を聞いて、改めて家族の立場で、どう思ったのか、に思いを馳せることとなった。

2019年10月6日 門司田野浦病院支部 創立23周年記念例会 「察知」

  田野浦病院支部の創立23周年記念例会が開催された。

 ともの園クリニック 鬼村院長先生の特別講演では、アルコールによる体への様々な障害について、とても詳しく解説していただき、アルコールの害への知識を深まった。先生の冗談を交えたお話や、都度の質問の受付・回答で、とても興味深く聞くことができた。

 体験発表では、家族や親族、また友人・知人に、心配や迷惑をかけたことが生々しく語られ、過去の自分の悪行の数々を再び思い起こし、反省した。

 自分の体験を包み隠さず発表してくれたお二人に恩返しがしたい。お会いすることができ、お話しする機会があれば、声をかけたい。

 同じ苦しい思いをした仲間です。一緒にやめつづけていきましょう、と。

2019年10月2日「何とかしないと」と思っていても

  ずいぶん前から、休肝日を作ろうと思っていた。日々の仕事の後のお酒は必須だ。お酒のために仕事をしているのに、仕事のある平日に飲まないのは矛盾している。と、言うことは、土曜日か日曜日が休肝日に適していると考えた。しかし、土曜日は「明日は仕事がないのだから、たらふく飲みたい。」、日曜日は「明日は仕事。たっぷり飲んで、しっかりと眠って、英気を養いたい。」となっていた。いつまでたっても、休肝日ができることはなかった。

 そうこうしているうちに、妻が産休・育休となり、収入が減って、妻から「焼酎は、3日で紙パック1本にして。」と、言われた。それでも普通は十分な量だと思うが、3日で1本どころか、2本は飲んでいた。1日に6~7合くらいは飲んでいた計算になる。

 何ともならない内に、入院する羽目になった。お酒をやめなければ、と思ってはみるものの、良い方法が全くわからなかった。何十年も飲み続けてきた酒。飲まない世界が想像できなかった。

2019年9月20日「感謝のこころ」

  ずいぶん昔のこと。親戚の集まりの飲み会だったかと思う。あるおじさんが「よし。今日の酒はこれくらいにしておこう。水をくれ。水。」と、言ってコップを伏せた。衝撃だった。お開きになった訳ではないのに、飲むの終わり、と。普通の人は、お酒を飲む量をコントロールできるのか。その気持ちは、いまだに理解できない。当然、お酒を飲まないことは考えられないし、別の世界、という印象だった。

 まだ愛知県に住んでいた頃、飲み会の帰りに電車に乗って、乗り過ごした。気づいたら、全く知らない駅だ。どうやら岐阜県のあたりまで来ているようだ。名古屋市内で乗車したはずなのに。駅の外に出てみると、タクシーはおろか、車すら一台もない。人すら歩いていない。

 ふと気づくと、足元もよく見えない暗い道を歩いている。右側の下の遠くから水が流れる音が聞こえる。どうやら川のそばの道をあるいているようだ。そこから、また記憶が途切れる。今度は、明るい街並みがある。車も走っている。まるで宇宙人に拉致されたかのように記憶が途切れている。あの川の道から転がり落ちていたら大怪我をしていたに違いない。

 今、お酒のない世界にいる。まったく想像ができなかった別世界に。そう考えると、とても不思議な気持ちになる。「こころの誓い」にあるように、完全にお酒をやめることがでている。これも断酒会、断酒会の先輩・仲間のお蔭様と感謝している。

2019年9月11日「飲酒時代を振り返って」

  職場で飲み会があると二次会に行くと必ず決めていた。幹事に頼んで、一次会は飲み放題の店にしてもらい、飲めるはずのない程の焼酎を頼み、目の前にたくさん並ぶ。お開きになると、飲めるだけ飲み干す。一次会の記憶はだんだん途切れ途切れになる。二次会の記憶はあれば良い方。三次会、四次会は、どうやら一人で行ったようだが、記憶がない。大金のクレジットカードの利用明細が財布にある。

 ある飲み会の日、クレジットカードは使うまい、と銀行で4万円おろし、飲み会に行く。翌日、財布を見ると現金が残っている。あまり使わずに済ませることができた、と安堵する間も無く、クレジットカードの利用明細に気づく。はやり大金を消費していた。なんともったいないことか。大金を使いながらも全く記憶にない。

 ある時は、自転車で飲み会に行った。翌朝、会社に行こうとすると自転車がない。どうやら昨夜の飲み会で、どこかに置いてきたようだ。会社が終わってから探しに行った。一次会の場所、にはない。二次会で、おそらく行ったであろう店に行ったが、やはりない。その後に行った店は記憶にない。小倉の街を探し回った。

 ようやく探し出せた自転車の前にある店は、入った記憶がない。二度とこんなことは繰り返すまい、と心に誓うが、同じことを繰り返した。

2019年7月19日「飲みたい私、飲ませたくない家族」

  わっしょい100万夏まつりには家族で行っていた。行くとビールが飲みたい。屋台で買うと、1杯が500円もする。4杯飲むと2千円!もする。そうそう量は飲めない。そうだ。ペットボトルに焼酎を入れていけばいい。

 しかし、夕方までは我慢できなかった。いい頃あい迄、家で焼酎を飲んで出かける。祭りの屋台では、イカ焼きだとかをつまみにペットボトルの焼酎を飲む。いい加減(良い加減ではない)にできあがる。

 ある年の祭りの帰り道、ひとりでとぼとぼと歩いていた。はてなぜだ?家に帰りついてから、妻に「なんでおいて帰ったんだ!」と怒鳴り散らすと、「だってタクシーに乗れなかったじゃないの!」と、言われた。

 よくよく考えてみると、あまりに酔っていたので、タクシーに乗り込もうと片足を上げるとバランスを崩して、そのまま後ろに転んでしまう。なんどやっても駄目だった。妻や子供たちの蔑むような視線が合った。

2019年7月3日「酒に対して無力と認めていますか。」

  中学2年生の頃、母親が病気で夏休みの1ヶ月、入院した。私は一人っ子だったので、一人での長期お留守番である。食事には不自由していたが、一人の自由を満喫していた。

 当時の自宅はマンションの3階にあり、台所はマンションの廊下に面していた。ある夏の真っ盛りの夜。その台所の窓を少し開けていると、人影がする。すぐさま、黒い顔の不審な人物が部屋の中をのぞいてくる。ギョロリとした目で一通り見回すと玄関の方に向かった。強盗かもしれない。入ってきたらどうしよう、とうろたえていると、ガチャリ。玄関が開き、その人物が入ってきた。

 その不審者は父親だった。当時、アル中と呼ばれていたアルコール依存症で入院していたが、一時外泊だったらしい。やせ細り、顔色が悪くなり、全く見違えるようになっていた。

 何故、そこまでお酒を飲むのか全く理解できなかった。しかし、それから30年を経て、自分も同じようになってしまった。飲みたいから飲んでいる、という状態は通り越していた。酔いから覚めるのがこわい。酔いから覚めると、不安の恐怖が襲ってくる。酒が切れる恐怖から逃れるためには、酒を飲むしかない。いつ飲めなくなるかわからない。たらふく飲んでおく。大量飲酒になった。

 酒に対し無力かどうか、などと言うことには考えも及ばなかったが、どうしようもなくなっていたことは間違いがない。本当に、お酒をやめなければならないと自覚しつつある時、どうやったらお酒をやめられるのか全くわからず、『絶望』しかなかった。

 今でも無力か勝てるか、などということは考えないが、断酒会の皆さんの中にいることで安堵感が得られているのだと思う。

2019年6月26日「飲んだ後のいいわけ」

  ある日、昼頃目が覚めた。家には誰もいない。腹が減った。近所のうどん屋に行くことにした。焼酎くらいは置いてあるだろう。店に着いてカレーうどんを頼んだ。そして、恐る恐る「焼酎はありますか?」と、聞いた。焼酎は置いていないが、ビールならあると言う。しかたがない。度数は低いが、無いよりはましだ。大瓶だったか、中瓶だったかを頼んだ。

 ビールはすぐに出てきた。ビール瓶を片手で持って注ごうとするが、震えてコップに収まらない。しかたがない。コップを置いて、瓶を両手で持って注ぐ。ビール瓶の口がコップの縁にあたり、カチカチ音がする。周りに聞かれているようで恥ずかしい。

 ようやくコップの7分目まで満たすことができた。片手で持つと、またコップが震えて溢れそうになる。早く飲みたい。もう周りを気にしていられない。両手でコップを持ち、ビールを飲み干した。すぐさまビール1本が空になった。その頃に、ようやく手の震えは止まっていた。震えを止めるには、お酒を飲むしか無い、と自分に言い訳をしていた。

 しばらくして、何とか会社に行くことができる日があった。ある打ち合わせの後、以前に上司だった方に呼び止められた。「あなたね、はっきり言うけど、酒臭いよ。何とかした方がいいと思う。」と、言われた。

 もう、どうしようもない日々が続いていた。

2019年6月21日「家族にかけた迷惑」

  さんざん飲んで酔っ払った翌日、目が覚めてリビングに行くとテーブルの上に妻の手紙があった。「朝ごはん、晩御飯をつくり、子供たちを迎えに行って、洗濯、掃除。これ以上なにをすればいいんですか。」と、書かれていた。そう言えば、昨晩はなにかを強く行った気がするが、何を言ったのか覚えていない。

 断酒継続している今は、妻はめっぽう出世し、帰りが遅い。晩ご飯を作るのは、もっぱら私の役目となる。先日の日曜日からふた晩かけて牛スジを煮込み、牛スジ丼を晩ご飯にだした。妻は「なんねこれは。猫の餌ね。」

 一昨日は、生姜焼きを作った。妻と高校生の娘は待ち合わせしてカレーを食べに行くという。ちょっと前の自分なら腹を立てて、せっかく作った生姜焼きをゴミ箱に捨てていたことだろう。

 その翌朝、 娘と一緒に家をでた。「今晩の晩ご飯は何にしよう。昨夜の生姜焼きでいいかな。」と、言うと、娘は「硬くなっているからいやだ。」と。さすがに腹が立った。

  10年以上前、まだ私が酒を飲んでいる頃、家族が寝静まって、私が一人のんでいる部屋に「眠れない。」と、言ってくる時期があった。私は酒を飲む時間を邪魔されるのがいやで、自分の部屋のガラスにダンボールで目張りし、明かりが漏れないようにして気配を消して飲んでいた。娘が小さくて可愛いときの記憶の大半を失ってしまった。街中で小さな女の子を見ると、つくづく勿体無いことをした、と思う。その時を取り返すことはできないが、せめて断酒継続し、今からの時を大切にしたい。

2019年6月19日「飲酒のいいわけ」

  必ず自分に言い訳していた。飲めば不安から解放される。楽になれる。缶チュウハイをぐっと一口飲み込む。途端に気が晴れやかになる。その一瞬でアルコールが身体中にまわった気になる。そうなれば、もうこっちのもの。何も気兼ねなく飲める。

 そうなると、今度はアルコールが切れるのが怖くなってくる。醒めないように、たらふく飲む。そうしているうちに、夕方になり、焼酎にきりかえる。記憶がなくならない日はない。

 気がつくと、朝の5時。もう目が覚めたら、飲まずにはいられない。少し我慢するが、1時間もたない。いらいらする。そんな酒に囚われている日々だった。

 退院してからも酒をやめることはなかった。せめて缶チュウハイの半分にしておこうと飲む。翌日になると、昨日は半分で済んだから、今日は1本飲もう。明日、やめればいい。翌日、お酒がとまることはなかった。明日やめればいい。これの繰り返し。そして連続飲酒になり、道端で倒れていた。そして、再入院・・・。

 退院してから、断酒会に入会させて頂いた。そして、お酒をやめます、と断酒宣言した。それからは、1滴も飲んでいない。今日も断酒会に行った。今日一日、飲まずに終われそうだ。 

2019年6月14日「断酒会につながって思ったこと」

  入院中、昼食の後、ディルームの壁に、断酒会の予定表が貼ってあることに気づいた。断酒会には行け行け、と言われる。これに行くと言えば外出できるかもしれない。院外例会への出席の動機は、極めて不純なものだった。

 その週の金曜日、八幡東生涯学習センターであっているという夜間例会に行ってみた。建物に近づいていくと、知った顔の方がいらっしゃる。

「え、あんた新門司病院から来たんか?」と、驚かれた。内心得意な気持ちになった。例会場を見つけ入っていくと、奥様方が笑顔で迎えてくださる。その笑顔の綺麗なこと!こんなに大歓迎で迎えられたことは、人生で一度もない。「コーヒーは、お砂糖はいれますか?」「いえ、ブラックで。」コーヒーまで出していただけるのか。次からは必ずブラックでコーヒーを出してくださる。その最初の一回で覚えられたようだ。

 飯塚支部にお邪魔したときのこと、会場がなかなかわからず、ここであろう場所の建物の下で待っていた。すると飯塚支部の支部長ご夫妻が現れた。その日は、3人での断酒例会となった。支部長の奥様はご主人の酒害を一生懸命に語ってくださった。お酒に関係するものは、湯のみ、お茶碗、はし、その他、ぜ〜んぶ捨てた、とおっしゃった。寂しそうだった。

 その奥様のお顔を思い出すと、よもや「酒を飲みたい」とか、ましては「飲んでしまった。」などど口にすることができない。

2019年6月12日「断酒に人生をつかう」

  再飲酒したあの日の夜。絶望、悲観、落胆、以外の言葉は思い浮かばない。飲めないなら、もう死ぬしかない。11階のベランダに出た。手すりを乗り越えれば死ぬことができる。

 しかし、怖くてできない。飛び降りたら、マンションの評価額が下がるだろう。死体の片付けはたいへんなのではないか。誰がやるのだろう。納得できる理由を探して自分を納得させた。

 翌々日、入院となった。午後2時頃、診察が終わり、病室に入った。昼食の蕎麦をスタッフさんが取っておいてくださった。あまり言えないが、蕎麦は汁を吸って延びきっており、麺はぶつぶつに切れていて、お世辞にも美味しいとは言えなかった。付き添ってきた妻が「自分をしっかり見つめ直して。」と、言い残し、扉がガッチャンと閉まった。

 楽しくなれると思って飲んでいたお酒は、いつの間にかイライラを呼ぶ薬物に変わっていた。退院してお酒をやめても、イライラはなかなかとれなかった。断酒会の先輩方は、だんたんと楽になれる、とおっしゃってくださっていていた。

 お酒を飲まずに済んでいる”今"、先輩方がおっしゃっていた通り、とても楽になった。どうやってお酒を手に入れるか、絶えず考えていた昔とは違う。体もきつくない。

 断酒の喜びを、お酒で苦しんでいる方々にお伝えすることができれば・・・。断酒の人生を使っていきたい。

2019年6月10日「苦しかった飲酒時代」

  生きていていいことがあるのだろうか。生きていてもしかたがない。死んでしまいたい。しかし死ぬのは怖い。死ぬ勇気もない。そんな不安な気持ちを、お酒が紛らわせてくれることに気づいたのは、いつだろうか。お酒を飲んでいれば楽になれる。辛いのは二日酔いだけ。夕方までアルコールが残るようなり、二日酔いもしなくなる。だんだんと、お酒に溺れていく。

 肝臓は悪くなる。体がだるくなっていく。めまいがする。もうどうしようもないと思うが、なにも、なにもできない。無理やり入院させられたが、これが命拾いとなった。それでもお酒をやめようとは思えない。いや、やめられるとも思わない。退院してから、どうすれば良いのか。

 主治医から退院の準備を告げられる。退院して無事でいられる自信がない、と伝えるが、いつまでも入院しているわけにもいかないでしょう、と言われる。

 とうとう退院する時が来た。酒のない時間をどう過ごせばよいのか。断酒会の始まるお昼まで、なんとか持ちこたえる。夜間例会にも参加させていただく。ようやく一日が終わる。無事に過ごせた。

 よもや、あの苦しい時代には戻りたくない。それを思い出すことで、今日も一日断酒できた。

2019年6月3日「酒のない一日を生きる」

  退院するときは、このままお酒がやめられればいいが、と思っていた。しかし、退院すると考えが変わった。「飲んでいることが周りにばれなければいい。前のように大量に飲まなければ、ばれない。」と。ある日、今日はこれだけにしておこうと缶チュウハイを一本だけ買ってきた。あっという間に、飲み干してしまった。ぜんぜん飲み足りない。入院前に隠しておいたお酒を探した。あちこちに隠しておいた。どこかにはあるはずだ。

 見つからない。どこにもない。悉く妻に処分されていた。仕方がない。料理酒を口にした。あまりの不味さに一口目で吐き出した。そうだ。確か本棚にウィスキーのミニチュア瓶があるはずだ。本棚を覗いてみた。ない。焦った。へトニックにアルコールが入っていると聞いたことがある。昔に使ったことがあるような気がする。探したが、なかった。

 断酒会に通い始めて間もない頃、飯塚支部の夜間例会で、ある奥様のお話を聞く機会があった。ご主人の様々な酒害。凄まじかった。数年後、その奥様は病気で亡くなられた。酒害を話している時の、寂しそうなお顔が忘れられない。よもや飲みたいと口にすることはできないと思った。

 断酒会が立ち上がる数十年前は、断酒会などという酒飲みの会には公民館で場所はかせない、と断られることもあったと聞いた。今は、当たり前のように断酒会を開いて頂いているが、断酒会の諸先輩がたの様々な努力があって、今の断酒会があるではないか。そう思うと「酒のない一日を生かされている」のは諸先輩がたのお力のお陰だと思う。

2019年5月29日「断友の意見」「家族の意見」

  いつでもお酒が飲めるように、缶チュウハイをいたるところに隠していた。特に多く隠したのがベランダだ。自分の部屋には冷蔵庫はないので、発泡スチロールの箱に缶チュウハイを入れ、冷凍庫でかちんかちんに冷やした保冷剤を入れて冷やしていた。発泡スチロールの箱の上にはからの段ボール箱を置き、完璧に隠していると思っていた。が、妻は何本減っているか毎日チェックしていたことを後から知った。

  そうこうしいるうちに、アルコール依存症が酷くなり、入院する羽目になるのであるが、退院してすぐに再飲酒したら、どうにもならない状態になった。妻はもうどうにもならないと考えたのか、義父と義姉を呼ぶこととした。

  義姉は、「再入院して治療しないと社会復帰はありえない。会社で適当にやっているひとはいくらでもいるんだから、多少入院してブランクがあっても、必ず社会復帰はできる。」と、励ましてくれた。

  しかし、私は入院したら、またお酒が飲めなくなるからと、頑なに再入院を拒否した。午後1時からの説得は、とうに午後4時を過ぎていた。入院すると言わない限りは許してくれそうにもない。と、ここで義姉の口から天使の言葉が発せられた。「どうしても飲みたい?」と。

私は、この言葉を待っていましたとばかりに「どうしても飲みたい。」と、返事をした。すると、義姉は「だったら今日だけ1本だけ飲みなさい。そして入院しなさい。」と、言ってくれた。私は、後先のことはもう考えきれなかった。入院でもなんでもするから飲まして欲しいと。

2019年5月27日「断酒会で学んだこと」

  精神科の病院に入院した。2週間ほど過ぎた頃に診察で「あなたは、アルコール依存症です。もう一生お酒は飲めません。」と、言われた。意味がわからない。入院している間はお酒は飲めない。退院したら、お酒を飲む量を、少し減らせば良い。肝臓がよくなれば、また飲める。たかがお酒。一生飲めない、とはどういうことなのか。頭が混乱した。

その後、断酒会に参加させて頂いた。この人たちは一滴もお酒を飲んでいない、と言っている。まさか。そんなことがあるはずはない。たまたま、あまりお酒を飲まない人たちが飲んでいないだけだ、としか思えなかった。

 しばらく参加させて頂き、話を聞いていると、共通の体験があることに気づいていった。もしかしたら、本当なのか。お酒をやめられる人がいるのか。断酒会の先輩方は「お酒をやめて楽になった。」と、言われている。信じられなかった。お酒を飲んでいる時が楽なのではないのか?

 断酒会で、皆さんのお話を聞いていると「ああ、自分もそうだったのか。」「同じ体験をしている」と、感じる。自分の体験談を話すと、皆さん頷いてくれる。人と人は響きあえるんだ、と感じた。

2019年5月22日「周りへの酒害」

  酒はいたる所に隠していた。妻の目の届かないタンスの上が多かった。すぐに取り出せる場所が多かった。家族のいるリビングからトイレにいくふりをして自分の部屋に行き、焼酎のワンカップをさっと取り出し、ぐいっと飲み込む。トイレにいく(ふり)の回数は次第に増えていった。

 家族でショッピングモールにいくと、まずトイレに行き、ペットボトルに焼酎を移し替える。透明なままだと焼酎とバレるので、お茶で色をつけた。茶色の焼酎を飲みながらショッピング。さぞかし酒臭かったことだろう。

2019年5月21日「入院時の私」

 入院して3日ほど経った頃、ひとり昼食を摂っていた。視界が次第に斜めになっていき、ちからが抜けた勢いで箸が後ろに飛んで行った。目がさめるとベットの上。妻が心配そうに覗き込んだ。院長先生も傍にいらした。どうやら気を失って、倒れたらしい。

 立てるようになってからの主治医の診察で「あなたが椅子に座って、そうしていること(生きていること)が不思議です。」と言われた。γ-GTPの値はとんでもないものだったが、まぁそんなものか、としか考えられなかった。

 夜は眠れない。義姉が持ってきてくれた「聴くと眠れるCD」を聴いた。雨の音、風の音、波の音、退屈なものばかり。まったく眠れない。7回聞けば朝になると、必死で聴いた。

 退屈でたまらないので、妻にラジオを買ってくるように頼んだ。うまく受信できない。もっと性能が良いものを買ってこい、と言った。辺鄙な田舎にある病院なので、ラジオの電波を受信できないだけだったのに。

2019年5月20日「酒害を掘り起こそう」

 すでに会社を休んでいた。退屈を紛らわせるために借りていたビデオ(DVDだったと思う)を返しに行っていた。歩いていくには少し遠いレンタルビデオ屋。よってはいたが、大丈夫だろうと自転車にまたがった。

 しばらく走って道を曲がると、道の端に蓋をしてない側溝が見える。狙ったわけではないが、ふらふらと側溝に近づいていき、前輪から突っ込み、頭からひっくり返った。怪我はしなかったと思う。やれやれ、と自転車を側溝から引っ張り出し、またまたがった。ペダルを漕ぐと、今度は落ちた側溝とは反対側の側溝にふらふらと向かっていき、また落ちた。やれやれ。